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「万物の霊長」 [随想カタカムナ]

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「万 物の霊長」とは孔子によって編纂されたともいう中国の歴史書「書経」に記された人類の釈名であるらしい。人類は生物学上サル目(霊長類)ヒト科の動物とさ れており、ヒト・ホモ‐サピエンスとよばれる動物である。しかしながら今日の地上における霊的混乱を見るに、万物の霊長たる人類が、その名に恥じぬ霊的長 (おさ)になり得ているのだろうかという疑問を持たずにはいられない。
さて、生物学上の霊長類という分類だが、もとより自然科学においてはいわゆ る「霊」なる存在は確認・証明されてはおらず、霊長という言葉をあてたことに科学的根拠はないともいえる。それでもなお科学者をして霊長という言葉を選択 させた根拠を探ることは無意味ではないと思われる。それどころか、霊性に関するはっきりした認識の確立こそ、混迷する現代人間社会の切り札になると直観す る。
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「万 物の霊長」とは孔子によって編纂されたともいう中国の歴史書「書経」に記された人類の釈名であるらしい。人類は生物学上サル目(霊長類)ヒト科の動物とさ れており、ヒト・ホモ‐サピエンスとよばれる動物である。しかしながら今日の地上における霊的混乱を見るに、万物の霊長たる人類が、その名に恥じぬ霊的長 (おさ)になり得ているのだろうかという疑問を持たずにはいられない。
さて、生物学上の霊長類という分類だが、もとより自然科学においてはいわゆ る「霊」なる存在は確認・証明されてはおらず、霊長という言葉をあてたことに科学的根拠はないともいえる。それでもなお科学者をして霊長という言葉を選択 させた根拠を探ることは無意味ではないと思われる。それどころか、霊性に関するはっきりした認識の確立こそ、混迷する現代人間社会の切り札になると直観す る。
 カタカムナな認識によれば、自らの存在を自然と明確に区別し、人類と名乗る自然現象のありようは、まさに不自然である。なぜなら、カタカム ナにおけるヒトとは人類に限ったことではないからである。われわれ日本民族の遠い祖先たちにとって自らの存在をヒトであると認識したことは、とりもなおさ ず、全てのイノチあるモノたちがヒトツであることに気づいたということを意味するのだ。今でこそ滅多に耳にすることもないが、いわゆるヒトノヨとは人間社 会を指すのではなく、現象化した自然界全てを表すヒビキなのである。
 人類と総称される生命体は、種としてきわめて単純でありながら、その棲息状 況の類い稀なる多様性は、地球自然の中において極めて異常である。この多様性をもたらす原因として、重要な関わりを持つと考えられるのが言語である。人間 とは、言語を使用する生命現象体の集合と、その棲息範囲の環境の総体からなる、極めて特殊で異常な自然現象であると言える。では、何がそれほど特殊であり 異常なのだろうか。
仮にこの地球から人類だけを消去した状況を考えてみて頂きたい。経済活動の名のもとに行われているあらゆる破壊活動と略奪行為 が停止する。自然環境に対する不自然な負荷は完全に消滅することになる。それはまさに自然現象そのままの世界となる。言い方を変えれば、人類さえいなけれ ば地球自然はまさに野生の王国である。自然破壊・環境汚染の元凶は人類の社会活動に他ならない。まずこの異常さを深く、鋭く認識する必要がある。現状から いって、人類の存在ははっきりと反自然なのだと。そしてなぜ、人類だけが反自然的存在になってしまったのかを究明しなければ問題解決はない。
 こ のように地球上に自然発生した現象の中で、人類のみが反自然的行動を組織的に遂行できる理由を考えるには、まず自然さとは何かを考える必要がある。これに は前提として人類の発生も自然現象であるとの基本的認識を必要とする。現生人類の発祥の起原については諸説存在してはいるが、仮に地球自然外の何らかの要 素が関与していたにせよ、全宇宙の自然環境によって発生したと考えれば当然自然の成り行きとして認識できるわけで、そのきっかけは問題にはならない。それ より生命現象の本来的指向性をこそ問題にするべきである。
さて、生命現象の本来的指向性とは一体何か。死滅するために発生する生命現象はないとい うことをまず念頭に置き、その意味において生命現象の本質とは、代を重ね、環境に適応して形を変えつつも生き続けるということだとする。これこそが自然さ である。この原則的指向性を認めるなら、人類の行動はその本質的指向性と矛盾していることになる。つまり自然さを失っているといえる。自然界において、人 類のみに見られるこの矛盾点こそ、人類が抱える究極の問題点である。では人類のみが自然さを失うに至る原因とはいったい何なのか。そこで人類と自然界との 決定的相違点である言語の問題へと向かわなければならない。
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  カタカムナ的には宗教・哲学・イデオロギーなどの相違はまったく意味がない。問題は言語自体の自然さによって決まると言える。言語自体の自然さとは何かと 言えば、天然自然に関する抽象度である。言語の発生時点における発想者の抽象度によるとも言える。現代社会において常用されている言語の抽象性能を考える に、発生時点の知的文明レベルに依拠していると言わなければならず、その意味においていずれの言語も天然自然に関する真理抽象の程度が低いと言える。天然 自然に関する真理抽象度とは、万物万象の根本原理に関する抽象の程度を言う。つまり、現代人の抽象能力は、使用言語の抽象能力によって規制されていると考 えなければならない。したがって抽象性能の低い言語によってフォーマットされた脳髄は自然さの欠如した観念形成しかできないことになる。以上のごとく、自 然さの欠如した観念によって日常的に判断行為を行い続けることが、人類全体の判断に自然さの欠如を招き、結果として人間社会全体が反自然的性格を帯びるに 至る。
 このような人間独特の異常な生態は、他の自然現象にとっては甚だしい脅威となる。なぜなら、人間は、自らの自然としての存在以外に社会的 理想という目的意識をもち、様々な犠牲を払ってこの目的を達成しようとするからである。人間界におけるこれらの目的達成は、多くの場合人類以外の自然に負 担をかけることによって可能となる。この意味において、自然界は物言わぬ奴隷であるといえる。カタカムナ的には人間以外の自然物の一切がわれわれと同然の ヒトなのであって、そこには真の意味においてまったく差別はない。ひとりの人間存在として思えば誠に残念なことではあるが、今日の人間社会は紛れもない奴 隷社会なのである。
そこでカタカムナの登場となるわけだが、はっきり言ってこれには非常に困難が予想される。と言うか現状に鑑みてはほぼ不可能とさえ思える。
  カタカムナを伝統的に言語として使用し続けるわれわれ日本民族は、潜在的可能性においては、これまで宗教や哲学がなしえなかった人類社会の霊的革命を成し 遂げることができる地球上では唯一の存在とも思える。しかしながら、われわれ人類が自然を搾取対象として築き上げた文明社会と呼ばれる霊的汚染物質の想像 を絶する物量を思うと、無念のあまり言葉を失ってしまう。一体どこからどう手をつければよいのか、実際気が遠くなる。
 誤解を恐れずにいってしま えば、現代人一般が言語で脳内に記憶収納している抽象概念のほとんどが、カタカムナ的にはケガレと呼ばれる。人間以外のヒトには一切見られない反生命的方 向性といえる。これは今風に言えばコンピューターウイルスに似ている。O.S.としては完璧とも言える完成度を持つカタカムナも、ハードウェアとしての脳 神経の過剰な性能によって、カタカムナにとっては夾雑物でしかない人間社会通念の常習使用に陥り、本来の感受判別能力を著しく低下させるに至った、という のが現代日本民族、カタカムナ人の末裔としてわれわれがおかれた現状である。
 かつて相似象学会・宇野会長のとった姿勢、少数者の鍛錬のためとい う方針はまったく無理もないことだったといえる。なぜなら現代人がカタカムナをクリーンインストールするためには、あらゆる意味で人間を辞める覚悟が必要 なのだ。カタカムナの哲理学的解析が、現代人間社会にその必要性を認められる可能性は絶望的に低いといわねばならない。なぜなら、カタカムナの完全なる 理解は、人間本意の人権思想・資本主義と民主主義を完全に解体せずにはおかないからである。
 かつて楢崎皐月が予言したように、自然科学はいずれ カタカムナの哲科学に追随するかもしれないが、資本主義という煩悩の拡大再生産の勢いが弱まるとは考えられない以上、利便性のみが資本に取り込まれること はさけられないだろう。これをトランジションと見ることもできないことではないが、資本主義的社会システムによってしか生活手段が保証されない社会におけ るカタカムナ的覚醒は、とりもなおさず人間社会からの離脱を意味することにしかならないだろう。
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