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「万物の霊長」 [随想カタカムナ]

万物の霊長じろ.jpg
「万 物の霊長」とは孔子によって編纂されたともいう中国の歴史書「書経」に記された人類の釈名であるらしい。人類は生物学上サル目(霊長類)ヒト科の動物とさ れており、ヒト・ホモ‐サピエンスとよばれる動物である。しかしながら今日の地上における霊的混乱を見るに、万物の霊長たる人類が、その名に恥じぬ霊的長 (おさ)になり得ているのだろうかという疑問を持たずにはいられない。
さて、生物学上の霊長類という分類だが、もとより自然科学においてはいわゆ る「霊」なる存在は確認・証明されてはおらず、霊長という言葉をあてたことに科学的根拠はないともいえる。それでもなお科学者をして霊長という言葉を選択 させた根拠を探ることは無意味ではないと思われる。それどころか、霊性に関するはっきりした認識の確立こそ、混迷する現代人間社会の切り札になると直観す る。
 

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霊性なる日常 [随想カタカムナ]




霊的覚醒者の孤独 あるいは 霊的二重人格者の多忙

 サトリ・霊的覚醒とはアタマ・智のめざめではなく、肉体を通した感受性としての感覚知の回復であり、全宇宙の霊性への回帰ともいえる。これはいわゆるクンダリーニと相似象をなす。
 
  ミキキして  カンずるヒビキの マノスベに  よりてサトリし  カシラハラ
 
 
さて、人間界の言語によって霊的存在を表現する、ということは至難の業である。というより、人間の観念で霊的現実を表現しようとする試み自体が困難である
といった方がよい。なぜなら、今日人間界で使用されている言語のほとんどが
霊的日常からは遊離した観念の使用によって形成されていると考えられるからである。つまり
人間界の言語には、霊的本質に関する適切な表現が存在していないということでもある。
 霊的世界は人類の存在とはまったく関係なく存在している。人類とひとことで表現される自然現象の総体(これにはあらゆる社会的要素も含めてのことだが)は、確かに霊的世界の一部分ではあるが、総体の霊的世界の本質に影響を及ぼすような影響力はないと考えて差し支えない。
 
そもそも、全宇宙に関する霊的統一の観念は、人類の言語の発達によってもたらされたことは事実であろう。端的な実証として、言語による観念思考が存在しな
い世界においては、すなわち人間社会以外の自然界は、一糸乱れぬ霊的統一のさなかに今でも置かれている。しかしながら その本質において直感された感受内
容を直観として自らに説明しうるのは、体験者の大脳使用言語によってである。従ってその文学的表現は使用言語の表象能力に規制されてしまうのは致し方ない
ことでもある。
 
 誤解を恐れずに言えば、人類の歴史的事実からして
釈迦・イエスをはじめ、霊的覚醒に至った人物が過去においてその周辺の人々に対して語った表現は
、その生い立ちによる使用言語によってなされたと思われるが、自らの霊的直観を適切に表現しうる言語がないために、その本質を的確に把握・認識できずに終
わっている。霊的覚醒者当人が把握・認識できないことを、他人に理解させることは、よりいっそう困難なことである。それがため、霊的覚醒に至ったものは、
時の社会において、人間的には非常に孤独な存在とならざるを得ない。
 霊的覚醒は,覚醒者自身に自らの覚醒内容を他者に説明しうる能力を保証する
ものではない。人間社会において生活する人々に、人間界の既成言語・既成概念を利用して霊的世界を解説しようとする試みの成否は、覚醒者自身の表象能力の
問題ではなく、使用言語の表現能力の問題なのである。
 
 霊的覚醒者に、対等な人間としての話し相手はできない。霊的覚醒とは否応なしに自らの存在と全宇宙との霊的統一を意味する。そこにはもう私は存在しない。私としてではなく、全宇宙の霊的存在の一器官として、直観を述べるしかない。
 そんな霊的覚醒者にとって、人間社会の様相はとうてい納得のいくものには映らない。全宇宙の霊的平等からして、人間界における宗教も自然科学も霊的平和に寄与するとはまったく考えられないからだ。
 
 
霊的覚醒者にとって人類にあるのは希望ではなく贖罪のみである。自然を征服しおのが利便に供することで築きあげられた人類文明は霊的自然界に対する冒涜以
外のなにものでもない。霊的には盲目とさえいえる現代人間社会での目に余る現象に、同じ肉体を持つ霊的知生体としていかに対処すべきなのか?ゲーテ・シュ
タイナーに通ずる言動は現代人間社会におけるキリスト教的霊的覚醒者の孤独の表れとして共感される。
 
 では、現代日本にカタカムナを再認識させた楢崎皐月はどうだっただろうか。やはり彼も孤独だったようである。

そらく彼がカタカムナを科学的観点から考察した初めての人類であったことは間違いないだろう。当時の日本人としては、ずば抜けた物理科学的常識を身につけ
た人物であったことが相似象学会に寄せた解説原稿からも伺われるが、そのことが 明治維新以来失われつつあった
日本民族の霊的な状況修正よりも、欧米主導による 自然科学文明の軌道修正へと その矛先を向けたことも無理からぬことであったと思う。

 
で、僕はといえば、たとえようもなく孤独である。30年にわたる流通システムのもとでのものつくりの生活。カタカムナとの出会いがなければ自殺という選択
肢が比重を増していたろうことは間違いない。鬱病という精神状態はまったく無理からぬものであったとも思う。ただひたすらカタカムナによる脳内観念の置き
換え作業と人間社会の現状分析を続けつつ、人間社会のシステムに依存しない生き様を模索しつつ、妻と息子と共に霊的二重人格者として普通に多忙な日常生活
をおくっている 。
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